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農林水産省

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明治用水(愛知県)

明治150年 イメージ画像

明治用水の歴史

明治用水完成以前の碧海台地は水に恵まれず、「安城が原」「五ヶ野が原」と呼ばれる開墾の進まない草野が広がっていました。台地上には、ため池に依存する耕地もありましたが、水の確保に苦労し、農民同士で水争いが起こることもしばしばでした。

江戸時代末期、都築弥厚は、この地域の農民の苦境を救うため、矢作川の水を碧海台地に導き、大規模な新田開発を行おうと計画しました。

都築弥厚は、用水の開削は水害を招くと誤解した農民の反対にあいながらも、5年の歳月を経て文政9年(1826)に測量を完成し、翌10年に「三河国碧海郡新開計画」を幕府へ出願しました。

天保4年(1833)、「三河国碧海郡新開計画」は幕府から一部許可されましたが、都築弥厚は同年9月69歳で亡くなり、この計画は頓挫してしまいました。

明治元年、石井新田(現在の安城市石井町)の岡本兵松によって都築弥厚の計画は蘇りますが、出願された用水計画は一向に日の目を見ることがありませんでした。明治5年に愛知県が成立し、ようやく許可を得ることができました。

そして明治13年、「明治用水」がついに通水を開始します。3月に「明治用水本流」が完成したのを皮切りに、翌年には総延長52kmの幹線水路が完成しました。愛知県は引き続き支線水路約40本の開削を行い、明治18年にはほぼ現在の明治用水の姿となりました。

明治用水が開削されるにつれて、不毛の土地として見放されてきた台地面は、次々と水田へと生まれ変り、こうした開田地から徴収した配水料によって、工事費用が賄われました。つまり、同じ時代の安積疏水、那須疏水と違い、民間の着想と資金調達だけでこの歴史的大事業を成し遂げたことになります。

平成18年2月には、疏水百選に選定されています。また、平成28年11月には、「世界かんがい施設遺産」に登録されました。

明治用水旧堰堤全景(明治42年竣功)
現在の明治用水
高画質(JPEG:320KB)

当時の資料

当時の貴重な資料のうち代表的なものを掲載します。詳細は担当までお問い合わせください。

開拓地用水合併兼開拓地御拂下再願
高画質(JPEG:263KB)
現代語訳

お問合せ先

農村振興局設計課(広報G)

代表:03-3502-8111(内線 5561)
ダイヤルイン:03-3595-6338
FAX番号:03-5511-8251

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