三本木原台地を開拓した新渡戸傳
開拓の街「十和田市」発展の基礎をつくる
青森県十和田市
1793年(寛政5年)~1871年(明治4年)
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十和田市を中心とした「三本木原台地」は“三本の木しかないので「三本木」という地名になった“といわれるほどの荒野原でした。
この土地の開拓事業に着手したのが、盛岡藩士・新渡戸傳です。前の五千円札の肖像、新渡戸稲造の祖父でもあります。事業着手時、傳はすでに62歳となっており、当時の平均寿命50代をはるかに超えてからの挑戦でした。
当時、農民たちは、何度も繰り返される凶作や飢饉に苦しみ、出稼ぎや逃亡が絶えませんでした。そこで傳は、米の生産を安定させ農民たちの生活を救うため、 奥入瀬川から水を引き、不毛の三本木原台地に2,500haの水田を開発する計画をたてました。資金は、藩からの出資金のほか沢山の出資者を募り、傳の私財も充てられました。高度な土木技術の導入・多くの農民の労役により、 硬い岩盤を貫くトンネル工事など難工事の末、4年もの歳月をかけて、不毛の荒野原に水を引くことに成功しました。 この水路の完成により、1860年の秋、この地にはじめて米の収穫がもたらされ、これを視察した時の盛岡藩主・利剛公は、水路を「稲生川」と命名しました。
その後も開拓事業は地域の人々に受け継がれ、水路は太平洋岸まで達し、支流も合わせた総延長は70kmとなりました。現在では約5,900haの水田を潤すとともに、憩いの水辺として市民に親しまれています。
参考情報
- 参考文献:「稲生川と土淵堰」 青森県立郷土館1994
- 関連施設:法量農村公園、幻の穴堰、山の神の碑、十和田市立新渡戸記念館[外部リンク]
- 観光ガイド:太素祭(稲生川の完成を記念して毎年5月3・4・5日、十和田市太素塚で行われる)
- 『稲生川』H26.9 国際かんがい排水委員会(ICID) かんがい施設遺産登録
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