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農林水産省

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伊勢~讃岐を駆け抜けた西嶋八兵衛

満濃池、雲出井用水を拓く(三重県・香川県を駆け抜けた西嶋八兵衛)

三重県津市、久居市
香川県まんのう町
1596年(慶長元年)~1680年(延宝8年)

西嶋八兵衛の肖像
西嶋八兵衛の肖像

満濃池
満濃池

雲出井
雲出井頭首工(改修前)

西嶋八兵衛は、遠州(静岡県)浜松で生まれ、名を之友通称を八兵衛といいました。 水利、土木、経済、書道に優れ、17歳の時に伊勢(三重県)津藩主藤堂高虎に仕えました。

(1)讃岐(香川県)のため池を築く

讃岐平野は古来降雨が極めて少なく、農民たちは水の確保に苦労してきました。「旱天五日に及べば水湿の潤いなく霖雨二日に及べば洪水の恐れあり」といわれ、日照りが続くと水に困窮し、大雨になると鉄砲水が民家や田畑を押し流し被害を出すという讃岐において、治水利水事業は急を要することでした。 1625年(寛永2年)には大地震があり、その翌年には大干ばつに見舞われるという天災が相次ぎ、讃岐では被害の復旧に努めると同時に農業用水確保のため、各地にため池を築きました。

そのような中、八兵衛は高虎の命により干ばつを救うため讃岐へ派遣され、1625年(寛永2年)から生駒藩の客臣として讃岐のため池の築造・改修に活躍しました。

彼が修築した代表的なものには、農業用ため池として我が国で有数の規模を誇る「満濃池」が挙げられます。満濃池は、空海が改修して以来、再三の破堤によって池内に集落ができるほどになっていたうえ、1626年(寛永3年)の干ばつでは95日も雨がなく農作物はひどい打撃を受けていました。そこで、八兵衛が中心となり、1628年(寛永5年)、満濃池の修築に取りかかりました。空海の改修から数百年経ち、再三の決壊や堤防老朽化でほとんど水がめの役割を果たしていなかった満濃池を嵩上げし、近代まで有効なため池にしました。

その他にも、今日著名なため池のほとんどを手がけ、わずか数年で90余のため池の築造、改修を行うなど、讃岐の水利開発に多大な功績を残しました。

(2)伊勢(三重県)の雲出井用水を開く

雲出井用水路は、三重県の中央部を西から東に流れる1級河川雲出川の左岸河口部付近に位置し、現在の津市、久居市の優良農地約800ヘクタールをかんがいする農業用水利施設です。

この伊勢の国一志郡一帯は、1643年(寛永20年)希にみる大干ばつで、稲が皆枯死し収穫は皆無でありました。さらに、3年後の1646年(正保3年)には、再び凶作に見舞われ、農民は餓死寸前でありました。

伊勢の国二代目藩主藤堂高次は、讃岐から戻った八兵衛に命じて領内を巡回させました。地域の惨状を見て回った八兵衛は、藩主の許しを得て、雲出井用水開削の大工事に着手しました。

工事は、村人達の人力により行われ、八兵衛が陣頭指揮をとりました。土地の高低差を測るため、夜間に提灯を立て並べたというエピソードが物語るように、大変難しい工事でありましたが、八兵衛の優れた技術と村人達の血のにじむ辛苦の果て、 1648年(慶安元年)に延長7,200間(約13キロメートル)の水路が完成し、雲出の村々14ヶ村600町歩の田畑がその恵みを受けることになり、一万石近くの土地が潤ったのでした。

煎り豆を歩きながら食べて食事の時間を削ったという逸話もある仕事熱心な八兵衛は、その後、城和奉行や伊賀奉行の要職を務め、85歳でその生涯を閉じました。八兵衛の偉業を讃え、今も香川から上野市正崇寺の墓所を訪れる人があるそうです。

参考情報

お問合せ先

農村振興局整備部設計課

代表:03-3502-8111(内線5561)
ダイヤルイン:03-3595-6338