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農林水産省

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内務省技術顧問 ヨハネス・デ・レーケ

オランダ国

1842年(天保3年)~1913年(大正2年)

日本へ

明治政府は日本の近代化にあたって教育、医学、法律、土木などの各分野の専門家約2,300人を欧米から招聘し雇用した。土木技術者では約120人に及ぶがその大多数はイギリス(鉄道、港湾、道路等)であったが、河川の改修など治水と築港については、オランダから招聘している。

デ・レーケは、1873年(明治6年)6月に31歳でオランダを離れ、9月に兵庫港に到着している。この時の契約では、4等工師として遇せられ、月給300円(警察官の初任給4円、大阪府小学校長が22円から35円)であった。

ヨハネス・デ・レーケ

ヨハネス・デ・レーケ

日本での業績

デ・レーケは1873年(明治6年)から1903年(明治36年)の30年間、2度の帰国の他は日本に滞在して、数々の業績を上げている。

「淀川の改修」、「木曽川の分流」、「大阪港、三国港、三池港等の築港計画」など枚挙にいとまがない。

これらの業績に共通する方法は、次のことであった。

  1. 上流域で砂防する(植林、砂防ダム等)。
  2. 洪水は上流から河口まで分流させないで流す。
  3. 洪水を流す河道は深く川幅を狭くして曲がりを少なくする。
  4. 蛇行した低水をつくり舟運の便を図る。
  5. 河口に導流堤をつくり土砂を海深いところへ流す。 

合口開削工事(森山知事の視察)

明治25年合口用水開削工事(森山知事の視察)

出典「常西合口用水誌」

富山県での業績

1858年(安政5年)に飛騨地方を襲った大地震(マグニチュード7程度)は、常願寺川の上流域である、大鳶・小鳶山を崩壊させ、立山カルデラ内に推定で4億立方メートルを超える膨大な量の土砂がたまった。このため、常願寺川は、洪水の度に土石を押し流し、流域に大きな被害を与えている。

1891年(明治24年)7月、九州から山陰、北陸、信越、東北地方にかけて、豪雨災害が発生した。常願寺川流域も御多分にもれず、安政の大水害に次ぐもので、堤防決壊6,500メートル、流出地1,527haに達した。当時の県知事森山茂は、国に専門技師の派遣を要請、デ・レーケが同年8月6日、富山に到着した。9月2日、石川県へ出発するまでに常願寺川をはじめ、黒部川、片貝川、上市川、庄川、神通川の各水系と伏木港を視察して、治水計画を立てている。

デ・レーケ指導による作業状況

デ・レーケ指導による作業状況

出典「常西合口用水誌」

彼が立てた常願寺川治水計画は、

  1. 12本の右岸側農業用水の合口化
    12箇所の取水口が堤防を壊れやすくしている。取水口を上流一箇所に合口し、幹線用水路から各用水路へ配水する。
  2. 堤防を霞堤にする
    堤防を連続させないで、二重に配置する。洪水時にはその堤防の間に一時的に水を溜める事ができ、また、上流が決壊しても氾濫した水が元の川に戻れるようになる。
  3. 下流の流路変更
    常願寺川は河口近くで大きく東に屈折し、白岩川へ合流しており、そこが氾濫しやすくなっていた。新たにまっすぐ海に向かう川を掘ることで、川の流れを速くすることができ、その勢いで土砂も押し流せる。
  4. 川幅の拡張

の四つの提案であった。

この工事に対する費用は、総額105万円と県予算の3倍以上にもなる膨大なもので、県知事は、2ヶ月にも及ぶ粘り強い交渉の結果、工事費の8割に達する国庫補助を受けることとし、同年(1891年)12月から改修工事が行われた。

また、デ・レーケは、以後1895年(明治28年)年8月まで通算9回270日余り富山県を訪れ、常願寺川をはじめ県内の河川の改修計画を立案・指導を行なっている。

「これは川ではない、滝だ」といったのか

日本の川を世界の川と比べるとき、日本の川が急流であることを示すのにいつも引き合いに出されるのが常願寺川である。流路の長さが56km、そのうち平野を流れる部分は18km。水源は三千メートル級の山々にある。平均斜度30分の1。デ・レーケが常願寺川を視察した際、「これは川ではない、滝だ」と言ったとされるが、「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」によれば「常願寺川は滝である」という言葉の出所は、富山県知事が内務省直轄事業としてもらうよう内務大臣に出した上申書であるという。上申書にある文言は、「・・・70有余の河川みなきわめて暴流にして、山を出て海に入る間、長きは67里、短きは23里にすぎぬ。川といわんよりは寧ろ瀑と称するを充当すべし・・・」であり、これがデ・レーケが言ったと伝えられたものとされている。

その後のデ・レーケ

デ・レーケは、1891年(明治24年)に勅任官扱い(内務省の事務次官扱い)となった。天皇から任命された「内務大臣の技術顧問・相談役」になった訳である。また、1903年(明治36年)に日本を去るまで、都合3回勲章を受けている。

オランダに帰国後、1905年(明治38年)、中国上海の黄浦江改修の技師長として迎えられ、1910年(明治43年)に帰国するまで5ヵ年を過ごしている。その後、1913年(大正2年)に71歳で亡くなっている。

デ・レーケ以後の常願寺川について

デ・レーケの指導を受け、常願寺川の砂防工事が県営事業として1903年(明治39年)始められた。この砂防工事は1926年(大正15年)に国直轄事業として引き継がれ、開始より100年以上経た現在も営々と実施されており、その効果により常願寺川は安定した河川となっている。

また、常願寺川流域7,905haのかんがいに関しては、デ・レーケの進言により、左岸の合口化による取水口が1893年(明治26年)常西合口として完成した。その後、横江地内に左右岸一体の合口化事業が農林省による国営常願寺川農業水利事業として行われ、1952年(昭和27年)にようやく左右岸一体の取水堰である横江頭首工が完成した。

その後、計画高水流量が変更されたことに伴う洪水流下能力の不足、洪水に対する頭首工の強度の不足から、1999年(平成11年)より農林水産省による国営常願寺川沿岸農地防災事業として、横江頭首工の改修等が行われ、2008年(平成20年)に完成した。

改修途中の横江頭首工

改修途中の横江頭首工

 

参考文献

「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」 上林 好之 1999 草思社

「とやま土木物語」 白井 芳樹 2002 富山新聞社

「常願寺川治水史」 建設省富山工事事務所 2000

「常西合口用水誌」 常西用水土地改良区 1963

歴史資料館

立山カルデラ砂防博物館

〒930-1405 富山県中新川郡立山町芦峅寺字ブナ坂68 tel076-481-1160

交通アクセス

富山駅から富山地方鉄道 立山線 立山行き電車で終点立山駅下車駅前徒歩1分

富山市内中心部から車で約1時間

北陸自動車道「立山インター」から車で約40分

 

本記事は、「農村振興第695号」(全国農村振興技術連盟)に掲載された「富山県 稲垣貢 氏」の記事を転載したものである。 

担当

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お問合せ先

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