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農林水産省

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特集 野生鳥獣と向き合う(4)

[COLUMN1] 山の恵みとともに生きる 八木沢マタギの狩りと暮らし



山でクマなどを狩る「マタギ」と呼ばれる人々。
あまり知られていない彼らの生活を、実際にマタギの家で育った"マタギ文化の語り部"
佐藤良美(よしみ)さんに聞きました。


八木沢集落最後のマタギ、佐藤良蔵さん
八木沢集落最後のマタギ、佐藤良蔵さん
昭和40年代の八木沢集落。当時はどの家もマタギだった。舗装された道路が通る今の集落に、マタギはもういない
昭和40年代の八木沢集落。当時はどの家もマタギだった。舗装された道路が通る今の集落に、マタギはもういない



秋田県の阿仁(あに)地域で発祥し、周辺へと広がった狩りの集団が「マタギ」です。私が育った八木沢もマタギが暮らす集落で、私の家も代々マタギの家系。父の良蔵(りょうぞう)もマタギでしたが、猟をするのは基本的に11月から春先にかけての猟期だけで、職業としての猟師ではありませんでした。江戸時代には、各地へ出向いて生業としての猟を行う「旅マタギ」がいたことが資料から分かっていますが、戦後、職業としてのマタギはいなくなったようです。

マタギはツキノワグマやウサギ、バンドリ(ムササビ)、マミ(アナグマ)、ヤマドリなどを獲物としていました。猟で山に入る前には、女性が近づくことは厳禁。これは山神様(さんじんさま)をまつるマタギの習わしの一つで、厳格に守られていました。山の中では独特のマタギ言葉を使って話すことも特徴で、私はほとんど理解できなかったことを覚えています。

父をはじめ、普段のマタギたちは温厚ですが、猟のときの姿はまさに鬼。遠くにいる獲物を目ざとく見つけて、射止めていました。獲物は一発で射止めるのが習わし。そこには「獲物を苦しませずに成仏させる」という思想もあったのかと思います。

中でも特別な獲物とされていたのがクマ。山神様からの授かりものとして、その肉は集落全体で平等に分けられました。肉を配って歩くのは子どもの役目。これも昔からの習わしで、「クマを恵んでくれた自然に感謝し、その感謝によってクマが成仏する」という儀礼を、肉を配ることによって後継者に伝える意味もあったのでしょう。

2009年に父の良蔵が引退し、八木沢集落からはマタギがいなくなりました。13年に父が亡くなるまで、時には酒を酌み交わしながらマタギの話を聞いたものです。マタギを継がなかった私には、その本当の姿は分かりませんが、私の知り得た限りのマタギの姿を、後世に伝えていこうと思っています。


定期的に行われる「八木沢マタギを語る会」では、はく製やマタギの道具などを展示することも 定期的に行われる「八木沢マタギを語る会」では、はく製やマタギの道具などを展示することも


マタギを支えた道具たち
牛革で作られた火縄銃の背負い袋。江戸末期頃に使われ、雪の上でも濡れたり凍ったりせず、寒中の猟に重宝した 佐藤家に代々継承された槍。右の槍の穂先の断面は三角形で溝があり、八木沢近隣では見られない形状。新潟県村上市三面で作られたものと思われ、昔のマタギがさまざまな地域と交流があったことの証拠の一つ 全長122センチメートルの小槍も受け継がれてきたもの。こちらは阿仁地域伝統の形状で、八木沢マタギが阿仁の流れをくむことが分かる 1.牛革で作られた火縄銃の背負い袋。江戸末期頃に使われ、雪の上でも濡れたり凍ったりせず、寒中の猟に重宝した

2.佐藤家に代々継承された槍。右の槍の穂先の断面は三角形で溝があり、八木沢近隣では見られない形状。新潟県村上市三面(みおもて)で作られたものと思われ、昔のマタギがさまざまな地域と交流があったことの証拠の一つ

3.全長122センチメートルの小槍も受け継がれてきたもの。こちらは阿仁地域伝統の形状で、八木沢マタギが阿仁の流れをくむことが分かる

佐藤良美さん 佐藤良美さん
1954年、佐藤良蔵氏の三男として八木沢集落に生まれる。太平山地で希少種、猛禽類の調査・研究に携わる一方、近世の旅マタギ(秋田マタギ)の調査・研究も行う。2009年に「八木沢マタギを語る会」を発足、マタギ文化を語り継ぐ活動をしている



取材・文/宮内亮司
写真提供/佐藤良美