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特集1 鯨(1)

[History]日本人と鯨



有史以前から日本人は鯨と独特の関係を築いてきました。
日本人と鯨の奥深い世界をご案内しましょう。

歌川国芳の「宮本武蔵と巨鯨」。剣客・宮本武蔵が鯨退治をしたという伝説に基づき描かれたもの。
歌川国芳の「宮本武蔵と巨鯨」。剣客・宮本武蔵が鯨退治をしたという伝説に基づき描かれたもの。
©PPS/アフロ

葛飾北斎の「千絵の海 五島鯨突」。各地の漁の様子を描いた10枚のうちの1枚で、五島列島の鯨漁の様子が分かる。
葛飾北斎の「千絵の海 五島鯨突」。各地の漁の様子を描いた10枚のうちの1枚で、五島列島の鯨漁の様子が分かる。
©Bridgeman Images/アフロ

河内祭(和歌山県串本町)では、華麗な装飾を施し軍艦に見立てた古式捕鯨の御舟の水上渡御(とぎょ)が行われる。
河内祭(和歌山県串本町)では、華麗な装飾を施し軍艦に見立てた古式捕鯨の御舟の水上渡御(とぎょ)が行われる。

適度な硬さと柔軟性を併せ持つ鯨のヒゲは、文楽の人形を動かす操作索として用いられた。
適度な硬さと柔軟性を併せ持つ鯨のヒゲは、文楽の人形を動かす操作索として用いられた。
©Fujifotos/アフロ


日本遺産に認定された鯨と生きた人々の物語
〈人々は、大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏(おそ)れたものの、時折浜辺に打ち上げられた鯨を食料や道具の素材などに利用していたが、やがて生活を安定させるため、捕鯨に乗り出した。〉

この文は、地域の文化や伝統を語るものとして文化庁が認定し、国内外に発信していく制度である日本遺産(平成28年度)に選ばれた和歌山県の「鯨とともに生きる」の概要です。

江戸時代初期に熊野水軍の末えいが鯨組を結成し、手投げの銛(もり)を用いた捕鯨を始めた熊野灘沿岸には、今も沖を見る鯨山見(くじらやまみ)跡や狼煙場(のろしば)跡などの史跡が点在しており、鹽竈(しおがま)神社のせみ祭り(那智勝浦町)や三輪崎の鯨踊(新宮市)などの伝統行事が大切に受け継がれています。

畏敬(いけい)と感謝の念を持ち大切に利用されてきた鯨
日本で太古より鯨捕が行われていたことは、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代のかめ棺に描かれた捕鯨の図からも確認できます。

江戸時代には網捕り式捕鯨が開発されたことで捕獲量が増え、庶民の食料として普及していきます。仏教の伝来とともに獣肉が忌避されていた日本で、鯨は貴重な栄養源として、肉だけでなく内臓も脂肪層も無駄なく食用にされました。また、食べるだけでなく、ヒゲは釣りざおやゼンマイに加工し、鯨油は灯用や石けんの材料にして、さらに余った部位は鯨肥にして、徹底した活用が図られたのです。

捕鯨が行われた地方には鯨の骨を御神体とする神社があり、1頭ずつ戒名をつけて法要を行い、過去帳に記録する寺があります。

「鯨一つ捕れば七浦潤う」と言われるほどの恩恵をもたらす巨大な生物はやがて信仰の対象となり、富や食べ物をもたらしてくれる恵比寿の化身とみなされるようになりました。

捕鯨の近代化と環境保護主義の台頭
1899年、汽船に搭載した砲で網のついた銛を発射するノルウェー式捕鯨が導入され、日本でも近代捕鯨が始まります。第二次世界大戦後に、食料難に苦しんでいた日本人を救ってくれたのが南極海の鯨でした。

環境保護主義の台頭で、日本人と鯨の独特な関係は国際社会で単純化され、「知的で絶滅にひんする鯨を救え」と主張する人々から非難されています。しかし、日本を含め鯨を資源として利用することを否定しない国々は、この主張に真っ向から反対しています。

現在、国際的な取り決めにより一時的に大型の鯨は商業目的で捕獲ができませんが、国内外で鯨は重要な食料資源として利用され続けています。



取材・文/下境敏弘



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