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農林水産省

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特集1 砂糖(2)

[てん菜生産地を訪ねて] 広大な北の大地で育つてん菜が地域を支える


北海道 河西郡芽室町



2代目の辻勇さんと3代目の敦さん。先代の時代に20~30アールだったてん菜畑は11ヘクタールに。
2代目の辻勇さんと3代目の敦さん。先代の時代に20~30アールだったてん菜畑は11ヘクタールに。
 

トラクターで深く耕す。手をかけた畑で年間約800トンのてん菜を生産。
トラクターで深く耕す。手をかけた畑で年間約800トンのてん菜を生産。
 育ったてん菜の根は1キログラムほどに育つ。
育ったてん菜の根は1キログラムほどに育つ。


地力を維持していくうえで欠かせない作物
肥沃で平坦なことから畑作が盛んな十勝平野に広がるのは、収穫を待つてん菜の緑です。

てん菜は、ほうれん草の仲間に分類される植物ですが、「砂糖大根」の異名の通り、根を搾った汁を煮詰めれば、砂糖ができます。寒さに強い作物で、日本では北海道で栽培されています。

十勝平野の中西部に位置する芽室町も産地の一つ。JAめむろで組合長を務める辻𠄀 勇さんは「てん菜は小麦、馬鈴薯、豆類とともに連作障害(同じ作物を連続して作ると生育が悪くなる)を避けるための作物ですが、収穫の際に切った葉を畑に鋤(す)き込むことで地力を維持できることから、輪作(※)の柱といえる作物です」とその重要性を説明します。

辻𠄀さん自身、てん菜農家の2代目ですが、北海道てん菜協会の副会長も併任しており、多忙を極めることから、農作業は長男の敦さんが担っています。

敦さんは自らが手掛けるてん菜を「生育期間が長く、労力がかかるが、それだけに愛着がわく作物」と表現します。

まだ畑に雪が残る3月上旬にビニールハウスで「ペーパーポット」と呼ばれる紙筒に入れた土に種を植えて育ててから、4月下旬に畑に植えます(移植栽培)。草取りや害虫防除を行いながら育て、10月中旬から収穫に取り掛かり、これを地元の製糖工場に運びます。

※輪作=同じ耕地に異なる種類の作物を一定の順序で周期的に交代させて栽培すること。


北海道の中心的作物として地域経済に貢献
今でこそ北海道の中心的作物の一つに数えられるてん菜ですが、北の大地に根付くまでには多くの先人の努力がありました。

1878年に開催されたパリ万博で、ヨーロッパにおけるてん菜業の隆盛を目の当たりにした内務省勧農局長、後の内閣総理大臣、松方正義は、寒冷な北海道の開拓の助けになれば、と紋鼈(もんべつ)(現在の伊達市)に製糖工場を建設します。しかし、この事業は失敗に終わり、その後、道内で試みられた製糖事業でも悪戦苦闘が続くのです。

松方正義の子、正熊(まさくま)が遺志を継いで製糖会社を立ち上げ、帯広で操業を開始したのが1920年です。収穫したてん菜を輸送する鉄道を敷設したことが功を奏し、やがて事業が軌道に乗り、あわせて旅客輸送を行ったことで十勝地方の開発にも弾みがつきました。

現在、北海道には2社1団体の8工場があり、それぞれの地域で収穫されたてん菜から、砂糖を製造しています。工場が立地する地域では、製糖業のみならず、輸送や食品加工などの関連産業も発展することから地域経済への貢献は多大なのですが、近年、生産者の高齢化などにより作付面積は減少傾向にあります。

また、てん菜の生産方法には、直接種をまく直播(ちょくはん)栽培もありますが、十勝平野特有の強い風の害を受けがち。そのため、敦さんは収量が安定し糖量も増やせる移植栽培を行っています。

「畑作経営の基盤であるてん菜を、これからも丹精込めて作っていきます」と敦さんは力強く語ります。



辻 敦さん
北海道河西郡芽室町出身の辻 敦さんは、JAのガソリンスタンド勤務を経て23歳で就農。「よい苗が育ったときは、秋の収穫が待ち遠しくなります」。


芽室製糖所で砂糖に
てん菜の根を千切りにし、温水に浸して糖分を溶け出させて、この糖液を煮詰めて砂糖を作る。製糖はてん菜の生産地で行われており、芽室町には日本甜菜製糖の芽室製糖所がある。

工場内に運ばれるたくさんのてん菜。
工場内に運ばれるたくさんのてん菜。
煮詰めて精製したあとに分蜜機で砂糖と糖蜜に分離させる。
煮詰めて精製したあとに分蜜機で砂糖と糖蜜に分離させる。
分離させた砂糖を乾燥させてから冷却し、包装機で包装して出荷する。
分離させた砂糖を乾燥させてから冷却し、包装機で包装して出荷する。
写真提供/日本甜菜製糖株式会社



取材・文/下境敏弘
撮影/島 誠


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