このページの本文へ移動

農林水産省

メニュー

食品産業の発展

明治150年 イメージ画像

(エ)家庭料理の普及と二人三脚で拡がる食品産業

洋食へのあこがれ

明治は食の洋風化という新しい文化への好奇心や憧れが生まれた時代でした。食事はただお腹を満たすだけのものから、味わう楽しみを伴うものへと変化していきました。料理へのモチベーションが高まり、家庭の食卓には色々なメニューが並ぶようになりました。洋食という新しいジャンルの料理が家庭に入ってきたことで、食品産業への新たなニーズも高まっていきました。

明治40年頃の都市部の食卓の様子。
中流家庭と思われます。食卓にフォークやナイフが見られます。
「衛生と衣食住」(福田琴月、明治44[1911]年)
(提供:江原絢子)

食品産業の近代化

一方、近代化をめざす明治政府は、殖産興業の一環として食品産業の発展にも力を入れました。民間においても多くのパイオニアが現れ、新たな食文化を生み出していました。手作りしていた食品を工場で大量に生産したり、先進の技術を導入して新たな食品を作ったりするなど、食にまつわるイノベーションが盛んに行われました。
缶詰の生産、製油・製粉・製糖などの技術の進歩、新しい調味料の登場など、この時期に見られた食品産業の画期的な発展は、食の西洋化や栄養の改善を後押ししました。

(オ)缶詰~軍需で発展~

明治時代に発展した食品産業の一つに缶詰があります。実業家が海外の技術を取り入れて事業化に乗り出し、国も殖産興業の一環として、その振興に力を入れました。本格的な缶詰工場が設立されたのは、明治10(1877)年のこと。この年、北海道開拓使石狩缶詰所が誕生し、さけ缶の製造をスタートしました。ここから全国にノウハウが伝わっていきました。
常温で長期保存ができ、携帯にも便利な缶詰は、軍隊の食料として重宝され、明治10(1877)年の西南戦争に始まり、明治27-28(1894-95)年の日清戦争、明治37-38(1904-05)年の日露戦争と、その役割を大きくしていきました。特に日露戦争においては、国の主導のもと、全国の民間缶詰工場によって大量生産が図られました。
この時期、各地の工場で製造機械の改善や技術の向上が見られ、缶詰産業は大きく発展。戦後には輸出産業としても存在感を増していきます。

缶詰ラベルコレクション
(所蔵/アドミュージアム東京)

(カ)ラムネ・サイダー~炭酸飲料の登場

「壊血病」に効く?

大航海時代、西洋では「壊血病」で命を落とす船員が多かったため、その予防策として炭酸レモン果汁飲料の「レモネード」が船に積まれていました。この病の原因は、20世紀になってビタミンC欠乏であるとわかりました。

黒船とともに

嘉永6(1853)年にペリー提督が来航した際、炭酸レモネードを幕府の役人に飲ませたのが日本における炭酸飲料の始まりで、ラムネという名前はレモネードがなまったものと言われています。
その後、明治元(1868)年の横浜を皮切りに、長崎や東京でラムネが製造されたと伝えられています。1900年代以降には、三ツ矢サイダー、リボンシトロン、キリンレモンが発売されました。

ラムネの歴史は容器の歴史

ペリーが伝えたレモネードは「きゅうりびん」と呼ばれる容器にコルク栓でフタをしたものでした。ビー玉栓のラムネびんはイギリスで生まれ、明治25(1892)年に国産化、王冠栓はアメリカで誕生、明治36(1903)年には日本でも作られるように。以降、王冠栓の炭酸飲料をサイダー、ビー玉栓のものをラムネと呼ぶようになりました。
今ではラムネとサイダーの違いは容器の違いですが、当初はサイダーは王冠栓でリンゴ風味の高級品、ラムネはビー玉栓でレモン風味の庶民の味。そんな風に棲み分けがされていたようです。
明治に製造が本格化したラムネやサイダーは、その後もさまざまな商品が生み出され、広く国民に親しまれる飲料となりました。

「きゅうりびん」
(提供:合名会社まるはら)

(キ)パン~日本の食文化との融合

日本オリジナル!「あんパン」の誕生

当時の日本人からは珍奇な食べ物として見られ、あまり売れなかったというパン。注目が集まる一つのきっかけとなったのが「あんパン」です。明治2(1869)年、文英堂(のちの木村屋總本店)が開業。5年後に酒種あんぱんを考案して発売したところ大人気となり、翌年、明治天皇に献上して好評を博しました。
その後、ジャムパンを発売、中村屋もクリームパンを発売し、それぞれヒット商品となりました。主食としてよりも、菓子パンとして人気が出たのが最初だったようです。

提供:キムラ屋總本店

パンが脚気を治す!?

日露戦争で有名な乃木大将の親友である桂弥一が脚気で入院した際、ドイツ人医師のすすめで食パンと牛乳の食事に変えたところ、完治したという話があります。当時、27名の入院患者のうち、25名が亡くなったとのことで、以来、食パンはしばらくの間、脚気の薬になると考えられていました。

米の凶作でパンが人気に

明治後半になると、凶作による米価格の暴騰をきっかけに、パンが主食の代用としての役割を果たすようになりました。つけやきパン、蜜パンと呼ばれる日本独特の食べ方が人気になり、焼いた端から売れたそうです。
西洋の食品をそのまま取り入れるのではなく、日本の食文化と融合させて新しいものを作り出したことで、パンは市民権を得てきたのです。

(ク)油~調理方法の多様化~

油を使った料理の登場

江戸時代の油はほとんどが灯火用。料理は煮る、焼く、蒸すといった手法が中心で、油を使うことはほとんどありませんでした。明治以降、洋食文化が少しずつ浸透し始め、まずは外食から、そして徐々に家庭へと、ポークカツレツ(のちのとんかつ)やコロッケ、カレーライス、オムライスなど、油を使う料理が増えていきました。この洋食文化を支えていた食品産業の一つが製油産業です。

近代的な工場での製油

明治15年頃までは、ゴマ、菜種、綿実などを原料に、手作業で油を搾っていました。それが明治中期から後期にかけて、輸入した板締め水圧機を使って製油する近代的な工場が現れるようになりました。また、原料もそれまでの物に加え、中国から輸入した大豆が多く使われるように。溶剤を用いて油を取る技術が生まれたのも明治時代のことです。

油を搾る様子
「製油録」(大蔵永常、明治23[1890]年)
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

油を使った料理の登場

江戸時代の油はほとんどが灯火用。料理は煮る、焼く、蒸すといった手法が中心で、油を使うことはほとんどありませんでした。明治以降、洋食文化が少しずつ浸透し始め、まずは外食から、そして徐々に家庭へと、ポークカツレツ(のちのとんかつ)やコロッケ、カレーライス、オムライスなど、油を使う料理が増えていきました。この洋食文化を支えていた食品産業の一つが製油産業です。

近代的な工場での製油

明治15年頃までは、ゴマ、菜種、綿実などを原料に、手作業で油を搾っていました。それが明治中期から後期にかけて、輸入した板締め水圧機を使って製油する近代的な工場が現れるようになりました。また、原料もそれまでの物に加え、中国から輸入した大豆が多く使われるように。溶剤を用いて油を取る技術が生まれたのも明治時代のことです。

近代的な製油工場の汽罐室。当時ランカシア・ボイラーを使用
(「攝津製油百年史」より)

マーガリンの登場

バターの代用品としてフランスで発明されたマーガリンは、明治20(1887)年に日本に輸入され、明治41(1908)年には国内生産が始まりましたが、当時は生産量が少なく、普及するようになったのは太平洋戦争以降です。
時代とともに、油は日本人の食生活に欠かせないものとなっていきました。

当時のマーガリンの広告
「人造バター」の名称が用いられている
(提供:あすか製薬)

(ケ)調味料(1)~洋食の必需品・ソースとケチャップ

西洋で生まれ、明治に日本で製造が始まった調味料は、食卓に新たなおいしさをもたらしました。

醤油のアレンジから始まったウスターソース

イギリス発祥のウスターソースが日本に初めて伝来したのは江戸時代末期。その後、明治18(1885)年にヤマサ醤油が「新味醤油」として「ミカドソース」を発売しました。同時期、阪神ソースが「日ノ出ソース」を開発、販売しました。その後、三ツ矢ソースや犬印ソース(現・ブルドックソース)など多くの製品が生まれ、ソース業界は活況を呈しました。

(画像提供:阪神ソース)

ケチャップを手軽に

アメリカから日本に伝わったケチャップは、明治29(1896)年、横浜の清水屋が製造したのが国内初と言われています。
明治41(1908)年にはカゴメが製造をスタート。洋食に欠かせない調味料が手軽に使えるようになったのです。当時、ケチャップを使うオムライスやチキンライスは、まだ家庭料理としてポピュラーではなかったため、広く普及したのは昭和になってからでした。

(画像提供:カゴメ)

(コ)調味料(2)~世界初のうま味調味料の誕生

日本人が親しんできた昆布だしに着目し、まったく新しい調味料の開発にチャレンジした研究者がいました。志を共有した実業家との協力で、製品化が実現しました。

第5の味覚「うま味」の発見

東京帝国大学(現・東京大学)の池田菊苗博士は、ドイツ留学中にドイツ人の体格と栄養状態の良さに驚き、日本人の栄養改善を強く願うようになりました。
帰国後、湯豆腐の昆布だしを味わううちに、基本の味には甘味、酸味、塩味、苦味以外にもあると考え、研究に着手。明治41(1908)年にだし昆布に含まれる味の成分「グルタミン酸」を発見、「うま味」と名付けました。

「味の素」の発売

翌年、池田博士との協力で、鈴木製薬所(現・味の素)が「グルタミン酸」を原料とした調味料「味の素」を発売。製法は特許を取り、池田博士は特許庁による「十大発明家」の1人に数えられています。
うま味調味料は、それまでにない製品だっただけに、生産も販売も苦労の連続でしたが、生産技術の改善や、工夫をこらした宣伝活動などによって、家庭に徐々に普及していきました。

(画像提供:味の素)

お問合せ先

大臣官房 新事業・食品産業部 新事業・国際グループ

代表:03-3502-8111(内線4354)
ダイヤルイン:03-6744-7179