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農林水産省

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工事景況概略

明治150年 イメージ画像

資料の現代語訳

そもそも、この工事は、去る明治9年(1876)に政府が陸羽地方の開墾を計画し、北は陸奥国三本木原から南は下野国那須原に至る。
そこは荒野の広漠とした岩代国対面原および諸原野で、土壌は最も肥沃で、その西方に当っては猪苗代の大湖がある。
その湖水を欠き穿ち水を流し導いて、同国安積・安達・岩瀬の三郡を灌漑し、それにより諸原野を開墾する手段となし、併せて古田の干害を防ぎ、その成果によりだんだんと民業工事を誘導し、奮い起こさせる事を目的として興る。明治12年11月に起業し、同15年10月に完成した。その満3年間の工事の状況と構造の概略を区別して載録するは、以下の通りである。

工事の第一番
湖西で貯留水を吐き出す所は、耶麻・河沼・北会津の三郡に接している翁沢村の字戸ノ口から湖の水を排出して本流となり、日橋川と言う。その流末で阿賀野川に合流して北海に入る流れに沿って8箇所の用水堰があり、数千町の田に水をそそぐ。今新たに湖東で分疏する時は、上述した低度を加える。かつ戸ノ口の水底は浅く、以前は前後の堰に水をせき上る事もあったので、分疏に先立って東西新古の疏水を調節する工事をおこなわなければならない。その次第は以下の通りである。 〔石橋取り壊し〕〔仮橋架設〕〔閉め切り枠据え付け〕従来十六橋と言う石橋があった。新橋を架けるために、まず仮に川上に仮橋を架け、次にこの石橋を壊して、次に敷下すべき川中へ水留のため切枠を布設する。厳寒時に降雪時であっても、激流を閉め切るのであれば寒中の涸水の時に、事業は至難であり就役は堪え難いが、わずかに閉め切りの功をおわれば、一滴の漏洩もなくなる。別に枠内に川底の湧水が甚だ多く、水車で螺器(長さ18尺(約5.5m)、円径1尺8寸(約54cm)の揚水機)を三梃あるいは四梃回転して昼夜水を汲み、3月から8月に至る。
〔川底の掘削〕川底は一面岩石であるのを、長さ81間(約147m)、幅133尺(約40m)余、深さ2尺(約60cm)余りの敷き下げのために、全て火薬を用いて掘削し、橋の上下南北に延び、吐出する水の流勢に従って火薬の堀採をすれば工事は意のままにはならないが、しかし、無理やり切りならした100間(約181m)ばかりの川底は砥石のようで一つの凸凹も遺さない。よって事業完成後に流勢は2倍となり、用悪水を流し通すのに非常に便利となった。
すでに明治14年の大雪融解による出水は非常な量であるといえども、湖中に溜まることなく素早く排出した。

(以下、省略)


お問合せ先

農村振興局設計課(広報G)

代表:03-3502-8111(内線 5561)
ダイヤルイン:03-3595-6338
FAX番号:03-5511-8251

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