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東北地方 青森県

青森県

画像提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

米・粉・いも それぞれに支えられた地域の暮らし

太平洋・日本海・津軽海峡の“3つの海”に囲まれる青森県。奥羽(おうう)山脈によって県中央部が隔てられ、津軽地方と南部地方、下北地方とで独自の暮らしが営まれてきた。大きく異なる自然環境はそれぞれの地域の食文化に影響を与えた。三者三様に展開する郷土の味を追ってみよう。

動画素材一部提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

3つの海に囲まれた本州最北端の地

本州最北端に位置する青森県は、太平洋・日本海・津軽海峡に三方をぐるりと囲まれており、中央部には陸奥湾(むつわん)を抱える。青函トンネルで結ばれる北海道とは目と鼻の先。空が澄んだ日には、県庁が置かれる青森市の展望台からも北海道を望むことができる。

県土を2つに隔てるのが名峰・八甲田山からなる奥羽山脈だ。山脈を境にして西側を「津軽地方」、東側を「南部地方」に大別される。この呼び名は、藩政時代の大名・津軽氏と南部氏に由来にしたもの。さらに細かくエリアを区切ると、南部地方から津軽海峡に突き出した「下北地方」が加わる。

青森県は四季の移ろいがはっきりしている。夏は短く冬は長い。その冷涼な気候を活かして各地で農業が営まれている。作目別に見ると果実、野菜、畜産などでバランスよく構成されていて、2018年時点の農業産出額は15年連続の東北地方トップをひた走る。

青森県の特産品といえば「りんご」を思い浮かべる人も多いだろう。世間のイメージどおり、生産量は国内でもダントツの一位。県のりんご果樹課の報告によると平成30年(2018年)度には445,500tが生産された。そのうちの4割ほどが関東へ出荷されるという。

今日の“りんご王国”の礎は意外にも近代に形づくられたもの。明治政府の振興事業によって苗木と栽培技術がもたらされたことで、河岸の丘や河川敷に栽培地が開かれていく。そして、需要の拡大とともに畑地や台地、山々へと広がっていった。
うちの郷土料理

「米」もまたりんごと並ぶ青森県の代名詞。世界遺産の白神山地や八甲田山などの山々から流れ出る清流や、十和田湖や岩木川などの清水を農業用水に活用し、各地で米づくりが営まれている。5月~10月にかけては東北地方で日照時間が最も長くなる。ちょうどその頃に生育期間を迎えている米は、太陽の光をたっぷり浴びてすくすくと育つ。

平成30年(2018年)の収穫量は全国11位、10aあたりの収量は596kgで全国2位を誇る。現在は「つがるロマン」、「まっしぐら」などの銘柄を中心に流通しており、平成27年(2015年)に作付けがはじまった「青天の霹靂」のブランド化がすすんでいる。いずれの銘柄も青森県の厳しい気象条件に負けない耐寒品種。先人たちが品種改良を繰り返し、研究を重ねた賜物である。いまでこそ一大産地に成長したが、昭和以前は気象や土地の影響から米がつくれるのは一部の地域に限られていた。それは独自に発展した地域の食文化にも表れている。

青森県の郷土料理を研究する、柴田学園大学短期大学部の北山育子さんはこう話す。

「青森県の食文化は大きく3つに分けられます。津軽地方の『米文化』、南部地方の『粉文化』、下北地方の『いも文化』です。“食”という点で歴史的に環境が恵まれているのは津軽地方。江戸時代は歴代の津軽藩主によって治水工事と新田が開発され、米づくりが盛んに。庶民でも白米を食べられることが多かったそうです」。
うちの郷土料理
また、津軽地方は、日本海側の風や太平洋側の北東風「やませ」が吹いてきても、高くそびえ連なる八甲田連峰や岩木山が風除けになってくれるので、冷害の影響が軽微なことも米づくりが盛んに行われた大きな理由だという。

「一方の南部地方は立地上、やませの影響をダイレクトに受けます。そのため、米づくりには適しておらず、飢饉と背中合わせの時代が長く続きました。次第に小麦粉、粟やひえなどを食べる『粉食・雑穀』の食文化が根づき、昭和の中頃まで主食にしていた家庭があったと記録されています。下北半島に根づいたのはじゃがいもです。こちらも冷涼な気候に耐えうる作物。じゃがいもをポテトチップ状にスライスして乾燥させる『かんなかけいも』という保存食も伝わっています」。
うちの郷土料理

そして、北山さんは「粉もいもも時代を追うに従って、地域の嗜好に馴染んでいった」と分析する。食文化の違いは主食だけに限らず、津軽地方南部地方下北地方、それぞれの地域で多様な展開を見せている。

<津軽地方>
歴代藩主も愛好した正月の主役・真鱈

江戸時代、大名・津軽為信によって弘前藩が置かれた津軽地方。弘前市は城下町にあたり、岩木山を彼方に臨む弘前城は東北で唯一天守閣が現存する史跡である。
うちの郷土料理
津軽の正月に欠かせないのが「真鱈」だ。お腹がでっぷりと張り出した巨大な魚で、大きいものは体長120cm、重さは20kgに達する。藩政時代は献上魚として珍重されており、10月~11月にかけて揚がった初鱈は城内の「山吹の間」という特別な部屋に飾られてから藩主のもとへ。参勤交代で藩主が江戸にいる年は、飛脚を使って送り届けていたほどだという。ピンクがかった白身は、クセが無く淡泊な味わい。新鮮なものは刺身で、切り身にして塩焼き、味噌焼きにしても美味しい。頭からしっぽの先まで捨てるところがなく、中骨や内臓などのアラは野菜とともに煮こまれ「じゃっぱ汁」にする。貴重なマダラコ(卵)は人参と煮て「たらの子和え」に。ぷちぷちとした食感が小気味よく、子どもにも人気の郷土料理である。
うちの郷土料理
「青森の正月は“鱈正月”。むかしは一匹丸ごとを調理して、家族で正月を迎えていたそうです。いまでも冬になったら、スーパーマーケットや惣菜店に真鱈料理が並ぶんですよ」。そう話すのは、青森市に拠点を置く料理研究家・千葉伸子さん。料理教室やイベントなどを通じて青森の食を盛り上げている。「県内では今でも多くの郷土料理が親から子、子から孫へと受け継がれています。とても身近なものとして、大切にされていますよ」。千葉さん自身も、お子さんとともに季節折々の郷土料理を家庭で楽しんでいるそうだ。
うちの郷土料理
「けの汁」も家庭で親しまれる郷土料理のひとつ。大根や人参、ふき、ごぼう、豆などが入った具だくさんの汁物で、小正月(1月15日)の定番になっている。特長は具を賽(さい)の目に刻むこと。「細かく刻めば刻むほど美味しくなる」といわれている。山菜をたくさん入れると、汁が黒っぽくなり、それも美味しいけの汁の印だそう。一杯にかけられた、つくり手の手間を思うと美味しさもひとしおだ。
うちの郷土料理

<南部地方>
庶民の命をつないだ、粉もの料理

鎌倉時代、青森県・秋田県・岩手県にまたがる北東北の一部は大名・南部氏が統治していた。16世紀末になると南部一族から津軽氏が独立し、勢力が大幅に縮小。青森県東部に残ったかつての領地は現在「南部地方」と呼ばれている。

江戸時代後期、一帯は凶作や飢饉などで米が手に入りにくく、小麦やそばが栽培されていた。その過程で生まれたのが小麦粉を原料とする郷土料理である。

例えば「きんかもち」は、黒砂糖とくるみ、味噌でつくった餡を小麦粉の皮で包んだもの。ご飯が足りないときは、こねた小麦粉を一口大にちぎった「ひっつみ」を汁物に加えた。薄くのばした小麦粉の生地を三角形に切り、茹でたものは「かっけ」。ねぎ味噌やにんにく味噌をつけて食べられていた。

南部家が治めていた八戸藩では、麦せんべいやそばせんべいが米の代わりの主食にしていたといわれている。明治時代になると固く焼いた「南部せんべい」が登場。そのまま食べることもあれば、ちぎって汁物の具にすることもあった。この汁物は「せんべい汁」として現代にも伝わり、八戸市の名物になっている。
うちの郷土料理
山間部と比べて、太平洋沿岸部は海の資源に恵まれていたようだ。漁師町ではウニとアワビでお吸い物風に仕立てた「いちご煮」が日常的に食べられていた。風変わりな名前は、だし汁に浮かぶウニが「朝もやに霞む野いちごに見えた」ためなのだとか。いちご煮が名物の階上町(はしかみまち)では例年7月に「はしかみいちご煮祭り」を開催。地域に代々伝わる味覚をいまに伝えている。
うちの郷土料理

<下北地方>
大海原がもたらした、豊富な海の幸

むつ市をはじめ、大間町(おおままち)や東通村(ひがしどおりむら)などの1市1町3村で構成される下北半島。独特の地形から付いた異名が“まさかり半島”。まさかりの“刃”の部分は津軽海峡の最狭部約20 kmを隔てて北海道と、平舘海峡を挟んで津軽半島と向かい合っている。
うちの郷土料理

エリアは、恐山山地が広がる北半部となだらかな台地が広がる南半部とに分けられる。景勝地が点在しており、そのうちの恐山や仏ヶ浦、大間崎などが下北半島国定公園に指定されている。地域の68%が森林で農用地は9%に過ぎない。また、春の終わりから夏にかけては低温、日照不足の日が続き、農作物が被害を受けやすい。米が十分に入手できない状況のなかで根づいたのが、じゃがいも栽培である。じゃがいもは冷涼な気候を好む作物。津軽海峡の冷たい風が吹きつける下北半島は生育に最適だったのだ。

「大間のまぐろ」で知られる大間町(おおままち)は、明治時代からじゃがいも栽培がはじまっており、特産の「オコッペいも」のブランディングに取り組んでいる。

漁業が盛んで、大間町や東通村などは、漁業の就業者も多い。漁のスタイルは地域によって多種多様。津軽海峡に面した地域は、クロマグロの釣り漁業や素潜りで貝類や海藻を採捕する採介藻漁業が営まれる。太平洋の沖合では対馬暖流と千島(ちしま)海流がまじりあい大量のプランクトンが発生。プランクトンを食べて繁殖した魚を狙い、漁船が駆り出される。

津軽海峡に開いた陸奥湾は古くからホタテが生息。昭和30年代に養殖が成功してからは、「陸奥湾ホタテ」が湾岸地域の名物になっている。
うちの郷土料理

画像提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

漁師町らしい豪快な食べ方が「味噌貝焼き」だ。鍋代わりにしたホタテの貝殻に出汁をはり、味噌をといて玉子でとじる。一昔前は各家庭に貝殻を常備していたのだとか。そんな家庭も少なくなったが、ホタテの美味しさは今も昔も変わらない。
うちの郷土料理

画像提供元:青森県観光情報サイトアプティネット

自然条件に逆らわず、その状況を上手く利用して生きる知恵を編みだしてきた青森県。米・粉・いもの食文化がいずれも失われることなく受け継がれてきたのは、現代を生きる人たちが先人に向けた敬意の表われなのだ。

青森県の主な郷土料理

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