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山梨県

画像提供元:やまなし観光推進機構

甲州街道や富士川舟運がもたらした甲斐国の食文化

本州のほぼ中央に位置する山梨県。山々にぐるりと囲まれた土地で、西部は南アルプスが南北に連なり、北部は北東にかけて関東山地がそびえる。南東には2013年に世界文化遺産に登録された富士山が鎮座。北西に目を向けると八ヶ岳が対峙するように広い裾野をひいている。そこから富士川水系や相模川水系、多摩川水系の3つの一級水系が流下し、駿河湾や相模湾などに注ぐ。

動画素材一部提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

甲斐八珍果(かいはっちんか)をもたらす山々の気候

山々からなる地勢ということもあり、甲府市の「昇仙峡」や山梨市の「西沢渓谷」など風光明媚な景勝地も多数点在。内陸型気候のため、一日の気温差が大きく年間の降水量も少ない。また、他県と比べて年間の日照時間も長い。例えば北杜市の場合、市の発表によると全国平均を500時間以上も上回る2,500時間を記録している。これらの自然条件は果樹栽培に適しており、県内ではさくらんぼ、柿、りんご、梅など多種多様な果実が生産されている。とりわけぶどう、桃、すももは県を代表する果実で収穫量日本一を誇っている。(出典:農林水産省「作物統計調査(作況調査「果樹」)・令和2年産果樹生産出荷統計(第1報)」)
うちの郷土料理
律令制の時代から「甲斐国」(かいのくに)と呼ばれた山梨は古くから” フルーツ王国”の礎が築かれていたようで、江戸時代の記録には「甲斐八珍果」(かいはっちんか)の言葉が残る。これは、甲斐の名産であるぶどう・梨・桃・柿・くり・りんご・ざくろ・くるみ(一説にはぎんなんとも)をひとくくりにした総称。選定者は定かではないが、江戸の人々も現代と変わらず山梨の果物に親しんでいたというわけだ。
うちの郷土料理

画像提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

大消費地・江戸への物流は「富士川舟運」(ふじかわしゅううん)や「甲州街道」(こうしゅうかいどう)が利用された。甲州街道は江戸幕府が軍事目的に整備した街道で、江戸日本橋を起点に内藤新宿、八王子、甲府を経て下諏訪宿で中山道と合流する。距離にして約208.5km。道中には四十五宿の宿場が設けられた。各宿場が用意した馬を乗り継いで物資は江戸へ届けられる。

山梨県の郷土料理で忘れてならないのが「あわびの煮貝」である。あわびを醤油で煮こんだ料理だが、海のない山梨でどのように根づいたのか、経緯はこうだ。江戸時代の末期、沼津港の魚問屋が伊豆七島でとれたあわびを甲斐国に送り込んだことが初めといわれる。まずは生のあわびを醤油で加工して樽詰めに。それを馬の背に載せて、ゆったりゆったりと街道を進んだ。長旅を終える頃には味がよく染みて最上の仕上がりになっている。これを称賛したのが甲府城の公務に就いていた幕府の武士たち。やがて江戸にも評判が伝わり広く知られるようになったという。現在でも正月や結婚式などの祝いの席には煮貝が登場することが多く、また、贈答用にも重宝される。地元メーカーも趣向を凝らして、自社製品を開発。時代を越えても特別な存在であり続けている。
うちの郷土料理

製粉具と水車によって粉食の習慣が伝播

全国的に知られている山梨県の郷土料理に「ほうとう」がある。幅広に切った小麦粉の平麺を味噌仕立てのつゆで煮こんだ料理で、具にはかぼちゃや里芋、人参などが使われる。一見、煮込みうどんのようだが麺に大きな違いがある。うどんはコシを出すために生地に塩を加えて熟成させるのが一般的だ。対するほうとうは塩を加えずに、打ったその場で煮立った鍋に入れられる。すると、麺が少しずつ煮くずれして、つゆにとろみが出てくるのだ。麺・野菜・つゆの一体感はうどんでは味わえない、ほうとうならではの魅力といえる。
うちの郷土料理

ほうとうをはじめ、山梨県では粉食が食文化の一端を担ってきた。うどんやそばといった一般的な料理から、パンケーキのような「うすやき」やショートパスタのような「みみ」、強いコシのある「吉田のうどん」などの郷土料理まで、あらゆるバリエーションが編み出されてきた。粉食が生活のなかに定着した背景には、山梨独自の地勢がある。帝京大学文化財研究所の客員教授である中山誠二さんは、こう分析する。「山梨県は県域の約8割を山林が占めています。江戸時代に治水が整備されるまでは、お米が収穫できる水田はごく一部の平地に限られていました。そのため、山麓部や丘陵地などで栽培される麦や雑穀、そばなどが作物の中心でした」。

弥生時代ごろは穀物を粒のまま食べる粒食が主流だった。ところが鎌倉時代になると武士や僧侶の間で製粉具が使われるようになり、次第に粉食の割合が増えていく。江戸時代には、村々に水車が設置されるようになり小麦粉の安定供給が可能に。一般庶民の食卓にも粉食が浸透していった。「傾斜地を流れる小川が水車の動力源になりました。明治時代には県内で三千基を越える水車が稼働していたそうです。つまり、製粉具の発達と水車の普及が粉食文化を育んだことになるわけです」。
うちの郷土料理

「大菩薩嶺(だいぼさつれい)と御坂山地(みさかさんち)を挟んだ東・西のエリアで、それぞれの食の歴史を歩んできた」と中山さん。西部の国中(くになか)地方と、東部の郡内(ぐんない)地方の郷土料理を紹介する。

<国中地方>
江戸幕府の重要拠点で花開いた独自の食文化

国中地方を細分化すると、峡中(きょうちゅう)・峡北(きょうほく)・峡西(きょうさい)・峡東(きょうとう)・峡南(きょうなん)の5エリアに分けられる。

峡中地域の中心地となる甲府市は、戦国時代の名将・武田信玄の出生地として知られる。市内には、信玄公ゆかりの地が点在。甲府駅前の「信玄公像」や信玄公を祭神に祀る「武田神社」など、そこかしこで「信玄」の文字を目にする。江戸時代には重要拠点と見なされ、甲府の城下町には幕府の役人が暮らすようになる。また、甲州街道を通じて、江戸の言葉や芸能、娯楽などが流入した。中央線や身延線が集まる甲府駅は、いわば県の“玄関口”。駅周辺には「ほうとう」や「鳥もつ煮」などの郷土料理を提供する飲食店が並び、観光客も気軽に地域の味覚を味わえる。
うちの郷土料理
韮崎市と北杜市で構成されているのが峡北地域である。北杜市は、北は八ヶ岳連峰、南西は甲斐駒ヶ岳から連なる南アルプス、東は茅ヶ岳(かやがたけ)、北東は瑞牆山(みずがきやま)などの山岳に囲まれている。市内の三か所が「名水百選」「平成の名水百選」に選定されており、なかでも「八ヶ岳南麓高原湧水群」は、標高約1,000m付近に50か所以上の湧水が点在している。正月や盆、村祭りなどの日には「小豆ほうとう」を食べる。小豆を甘く煮立てて、そこへほうとうを入れる。現代ほど食が豊かではない時代、甘いほうとうは何よりのごちそうだった。市内にある三輪神社では例年7月、「ほうとう祭り」が行われ、小豆ほうとうがふるまわれる。
うちの郷土料理
峡西地域の中心地・南アルプス市は、南アルプス山系とその裾野を流れる御勅使川(みだいがわ)の扇状地からなっている。大正から昭和初期には養蚕が最盛期を向かえ、扇央地域一帯には桑園が広がった。昭和後期にはほとんどの桑園が果樹園に姿を変え、以来、スモモやモモ、さくらんぼなどの産地として知られるように。農作業の合間に畑でとれた小麦を使った小麦粉料理が食べられていた。そのひとつが前述の「うすやき」である。さっとつくれる手軽さから、現代でもおやつや軽食として各地で食べられている。
うちの郷土料理
信玄公が築いた堤防「信玄堤」(しんげんづつみ)が残る「釜無川」(かまなしがわ)は、甲府盆地南で「笛吹川」と合流し、“日本三大急流”の一つに数えられる「富士川」となる。その流域には、富士川町(ふじかわちょう)、市川三郷町(いちかわみさとちょう)、早川町(はやかわちょう)南部町(なんぶちょう)などで構成される峡南地域が広がる。江戸時代は、街道「駿州往還」(すんしゅうおうかん)や富士川舟運を通じて駿河との交流も盛んにおこなわれた。中山さん曰く「峡南を通って、年貢米が江戸に運ばれ、逆に駿州からは塩が持ち込まれた。また、富士山西麓を通る中道往還を通じてマグロや鮮魚が運ばれた」とのこと。また、水運の拠点だった「鰍沢河岸跡」(かじかざわかしあと)にはサメやイルカを食べる習慣も残っている。「久遠寺」(くおんじ)の門前町・身延町(みのぶちょう)では「生湯葉」を食べる習慣が伝わっている。
うちの郷土料理
峡東地域は古くから農業が盛んで、一説には奈良時代からぶどう栽培が営まれていた。この地域、とくに甲州市の松里地区は「枯露柿」(ころがき)の産地として有名。最大500g程度になる品種「甲州百目」(こうしゅうひゃくめ)を使った干し柿で、信玄公の推奨によって生産がはじまったとも伝わる。生産されるのは11月から12月にかけての時期だ。燻蒸した渋柿を風通しのよい場所で1カ月ほど乾燥させ、その後に形を整えながら棚干しすると完成。農家の軒先に吊るされた“枯露柿のカーテン”は、昔ながらの暮らしぶりを現代に伝える峡東の秋の風物詩だ。
うちの郷土料理

画像提供元:山梨県

<郡内地方>
飢饉対策だったじゃがいも料理が現代の日常食に

富士吉田市、都留市(つるし)、大月市、上野原市、南都留郡、北都留郡で構成される郡内地方。「山中湖」(やまなかこ)や「河口湖」などの富士五湖を擁しており、南部の県境は富士山を挟んで静岡県と接する。
うちの郷土料理

江戸時代、耕地に乏しく米づくりが困難だったこともあり、一帯では養蚕業や織物業が貴重な収入源になっていた。集落の畔には蚕の餌にする桑が植えられていたという。この糸を原料にした「郡内織り」は甲州街道を渡って、江戸庶民のもとへ。大変な人気ぶりで、江戸の商人が買い付けするための「買宿」を集落に設置するほどだった。往時の面影を伝えるのが上野原市の「乙女坂」にある「諏訪番所跡」だ。神奈川県との県境付近に置かれた番所で、甲州街道を行き来する通行人や物資を取り締まる。周辺には4つの宿場が置かれ、宿や茶屋は旅人たちでにぎわいを見せていた。

しかし、当時は全国規模で飢饉が発生することも多く、この地も例外ではなかった。一度飢饉が起こると住民たちは「せいだのたまじ」を食べて飢えを凌いだ。これは小粒のじゃがいもを味噌風味に炒め煮た料理。「せいだ」とは郡内にじゃがいも栽培を伝えた代官・中井清太夫(なかい せいだゆう)にちなんだもの。「たまじ」は小粒のじゃがいもを意味する。「小さなじゃがいもも無駄にしまいとする、昔の人の慎ましさが感じられます」。そう話すのは、山梨県食生活改善推進員連絡協議会の会長藤澤惠子さん。料理教室やイベントなどを通じて、地域に根ざした食文化や郷土料理の伝承に取り組んでいる。
うちの郷土料理
藤澤さんは、同じく郡内に伝わる「じゃがいもとひじきの煮物」についても教えてくれた。「この料理は7月1日の富士山の山開きの日に食べられる行事食。山の幸と海の幸を使った料理をお供えして富士登山の無事を祈りました。現在は日常的に食べられており、スーパーマーケットの総菜売り場で見かけることも珍しくありません。
うちの郷土料理
『甘納豆のお赤飯』や『おしゃかこごり』など、山梨には行事食から家庭の味に浸透していった料理がたくさんあるんですよ」。「じゃがいもとひじきの煮物」の調理のポイントは、じゃがいもを煮くずれさせないこと。出来たてを頬張ると美味しさも格別。口いっぱいに広がる力強くも素朴な味わいが郡内の里山風景と重なる。
うちの郷土料理

1841年、「東海道五十三次」でおなじみの浮世絵師・歌川広重は、作品制作のために甲斐国を訪れている。甲府の道中や滞在時に起こった出来事は、スケッチとともに「甲州日記」にしたためられた。1日4、5回も食事をとっており、几帳面にもそのときに食べた料理を記録。そこに登場するのは、うどん、鮎の寿司、まんじゅう、豆腐、だんご……と、実に多彩。甲府城下で連日のように酒盛りをし、食べ歩きを満喫した。広重が舌鼓を打った郷土料理が現代に受け継がれ親しまれているのでは、などと想像を巡らせるのも楽しい。

山梨県の主な郷土料理

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