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関東地方 千葉県

千葉県

温暖な気候と肥沃な大地、豊かな海に恵まれた食材の宝庫

本州中央部の東端にあたる千葉県は、外海に大きく突き出た半島にある。東と南は太平洋、西は東京湾に面し、ぐるりと海に囲まれている。半島の付け根を流れるのは「江戸川」と「利根川」。これら一級河川を境にして東京都と埼玉県、茨城県と接している。

動画素材一部提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

取材協力場所:芳の

温暖な気候の房総

地形は丘陵・台地・平野の3つに大別できる。実は千葉県は全国で唯一標高500m以上の土地が存在しない県になっている。県南部は丘陵地だが最高峰の「愛宕山」(あたごやま)でも標高408.2mだ。また、北部一帯は関東ローム層が堆積した下総台地(しもうさだいち)が形成され、利根川流域や九十九里(くじゅうくり)沿岸には平野が広がっている。土地の標高差が小さいこと、海に囲まれていること、東沿岸沿いに黒潮が流れていること、これらの条件が重なって年間を通して気候は温暖。南房総海岸地域は冬でもほとんど霜が降らない。
うちの郷土料理

千葉県は「房総」とも呼ばれるが、この起源をたどると古墳時代にまでさかのぼる。当時、一帯は「総国」(ふさのくに)と呼ばれていた。「総」とは古語で「麻」のこと。四国の阿波(あわ)から黒潮に乗ってやってきた人々が、この地で麻栽培をはじめたことに由来している。

大化の改新後、総国は南半分を「上総国」(かずさのくに)、北半分を「下総国」(しもうさのくに)に分けられた。さらに上総国から「安房国」(あわのくに)が分立して房総三国が成立。その名残りは現在まで受け継がれ、安房の「房」と上総・下総の「総」を組み合わせて「房総」と呼ばれるようになった。

江戸幕府の食卓を支えた食料供給基地

古くから漁が営まれており、海の幸に恵まれていた。各地に残る縄文時代の貝塚からはマダイやマグロ、イカなどの骨が出土。珍しいところではクジラやアシカといった海棲哺乳類を捕獲していた痕跡も残っている。

漁業が本格化したのは江戸時代に入ってから。徳川家康が江戸を政治の中心に据えてからは魚の需要が急増。家康は供給の担い手として、優れた漁業技術をもつ関西の漁師たちを江戸に呼び寄せた。やがて漁師たちは好漁場だった房総にも進出。銚子や九十九里に大規模なイワシ漁を根づかせた。
うちの郷土料理

画像提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

「当時、船橋市周辺は『御菜浦』(おさいうら)と呼ばれ、江戸幕府に魚介類を献上していました。物資を運び入れる大動脈になっていたのが利根川と江戸川です。家康は治水事業に注力しており、とくに重要視していたのが“暴れ川”だった利根川。もともと東京湾に注いでいた利根川に水路や堤防などを築いて、太平洋へ至る流路を築いてしまったほどです」。そう話すのは、千葉県栄養士会の会長・杉崎幸子さん。千葉伝統郷土料理研究会の会長を兼任し郷土料理の普及・啓発にも努めている。
うちの郷土料理
杉崎さんは「太巻きずし」の保存・継承活動に力を入れている。この「太巻きずし」の特徴はなんといっても切り口を美しく彩る絵柄にある。鶴、桜、パンダ、ちょうちょなどがさまざまな食材を使って表現され、子どもや海外の人にも好評だ。「山武市(さんむし)やいすみ市、木更津市などを発祥とする郷土料理で、地域の集まりや冠婚葬祭の必需品でした。本来、つくるのは男性の仕事でしたが、戦後は女性たちが受け継ぎレシピを口伝していました」。昭和30年代から、杉崎さんの恩師の龍崎英子さんは集落の家々を訪ね歩き、「太巻きずし」の歴史や材料、絵柄の再現方法などを調査。その成果を収めたレシピ本を出したり、料理教室の開催や講演をしたりすることで、魅力をいまに伝える。「現在は絵柄の出来を競うように県内各地でつくられています。使う食材は自由度が高いため、地域でとれる食材を活用できるのがポイントですね」。
※杉崎幸子さんの「崎」は「たつさき」
うちの郷土料理

画像提供元:千葉県

千葉県内には「太巻きずし」以外にもさまざまな郷土料理が残っている。東葛飾・ベイエリア北総エリア九十九里エリア南房総エリアの4エリアに分けて、その一部を紹介する。

<東葛飾・ベイエリア>
子安講や八月朔日などの必需品「とり飯」

県の都市部として機能する東葛飾・ベイエリア。戦後の比較的早い時期から宅地開発が進み、県人口のおよそ7割が集中している。県庁所在地の千葉市から東京湾にかけて広がる日本最大規模の新都心・幕張新都心には、国際的な会議やイベントに使用される「幕張メッセ」がある。また、浦安市には大型テーマパークを中心にホテルや商業施設が林立したリゾート地区が形成される。我孫子市、柏市、印西市、白井市にまたがる「手賀沼」(てがぬま)は、北総エリアの「印旛沼」(いんばぬま)とともに「県立印旛手賀自然公園」の一部に指定される景勝地。面積6.5km2、周囲38kmの細長い沼で、野鳥の姿も観察できる。
うちの郷土料理

野田市周辺では醤油醸造が伝統産業となっている。永禄年間(1558~1569年)に飯田市郎兵衛という人物が溜醤油をつくりはじめたのがきっかけなのだとか。やがて、当時シェアを握っていた関西醤油を圧倒し、江戸の需要を賄うほどに成長。19世紀中期には、高梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油に選ばれた。
※高梨兵左衛門家の「高」は「はしごだか」

かつて、船橋市周辺の漁場は幕府に魚や貝を献上するほど海の幸に恵まれていた。東京湾に残された干潟「三番瀬」(さんばんぜ)では、現在も海苔養殖やあさりやホンビノスガイといった貝類の漁が営まれている。味噌仕立てのあさり汁「ふうかし」として地域の味覚に根づいている。

千葉県調理師会専務理事の海部芳英さんは、このエリアの代表的な郷土料理に「高津のとり飯」を挙げる。八千代市の高津地区に伝わる鶏肉を使った混ぜごはん。子安講(こやすこう)や八月朔日(ほづみ)といった行事のときに食べられていた。「醤油で炒めた鶏肉とその煮汁をごはんに混ぜこんだシンプルな料理。だからこそ、素材の持ち味をしっかり楽しむことができます。手間もかからずとても合理的な料理だと思います」。海部さんは「干葉(ひば)雑煮」にならって、とり飯の上に干した大根の葉を乗せてアレンジ。野田の醤油を使ってその美味しさに磨きをかける。
うちの郷土料理

<北総エリア>
ほくほくの食感がクセになる「ゆで落花生」

利根川流域に沿った平野部と、そこからつながる下総台地からなる北総エリア。「印旛沼」と「手賀沼」を擁する「県立印旛手賀自然公園」をはじめ「水郷筑波国定公園」や「県立大利根自然公園」など各地で水辺の風景が広がっている。また、印西市に残る里山や、利根川水運の中継地として栄えた香取市の佐原(さわら)など、古き良き時代の風景が残っているのも特徴だ。
うちの郷土料理
利根川の最下流にある銚子市の沖合は、水深200mの大陸棚が広がっており黒潮と親潮、そして利根川の流入によって日本有数の好漁場を形成。江戸時代には、魚を追い求めてきた関西の漁師たちが外川漁港を築き、漁業の発展に貢献した。銚子漁港は、日本各地の漁船を受け入れるほどの漁業基地となっており、年間約20~30万トンの魚が水揚げされる。魚種は多岐にわたり、サバ、マイワシ、サンマ、カツオ、ヒラメなど多獲性魚から回遊魚まで約200種に及ぶ。
6月から7月にかけての梅雨どきに水揚げされたマイワシは「入梅(にゅうばい)イワシ」の名で流通する。1年で最も脂が乗った時期で、刺身で食べると舌の上でとろけるような味わいだ。塩焼き、煮付け、佃煮など、さまざまな調理法があり、地域に不可欠な食材であることがわかる。
また、銚子は野田と並ぶ醤油の名産地である。干鰯商人だった田中玄蕃が、1616年に醬油作りを始め、高瀬舟で江戸に醤油を運んだ。
うちの郷土料理

画像提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

同エリアの特産品といえば八街市(やちまたし)の落花生も有名だ。本格的な栽培がはじまったのは明治40年ごろ。八街の開墾された土壌が栽培に適しており、総武鉄道の開通で出荷が容易になったことも重なって、大正初期には特産地に成長した。1949年の記録によると、全耕地のうち80%が落花生の栽培に使われていたという。

八街を中心に伝わる独特な食べ方が「ゆで落花生」である。秋に収穫されたばかりの落花生をゆでたもので、一般的な煎り豆よりもほくほくとした食感と優しい甘味が楽しめる。一昔前までは地元だけで食べられていた、知る人ぞ知る一品だ。保存方法と物流が発展した現在は市内外へと出荷され認知度を高めている。
うちの郷土料理

<九十九里エリア>
地引網漁発祥の地に生まれたイワシ料理

九十九里エリアは、九十九里町(くじゅうくりまち)や東金市(とうがねし)、山武市などで構成される。太平洋に面した旭市(あさひし)の飯岡(いいおか)地区から、いすみ市太東(たいとう)海岸に至る約60kmの海岸線「九十九里浜」はエリアを代表する名所だ。一宮の海岸地域は明治時代から海水浴場や別荘が設置され“東の大磯”として知られるようになった。芥川龍之介、伊藤左千夫、高村光太郎といった明治を代表する文人たちにも愛されていた。
うちの郷土料理

九十九里浜は遠浅で岩が少ないため、長さ2kmに及ぶ大きな網を使い、100人を越える人たちで引き上げる「大地曳網漁」が営まれていた。きっかけは、1555年、紀州から剃金村(現在の白子町)に漂着した西之宮久助だ。彼は豊富にとれるイワシに目をつけて紀州漁法の地引網漁をはじめる。イワシは食用のほか、肥料のための干イワシや〆粕などに加工され全国各地に出荷。地元住民たちの貴重な収入源になっていた。

このような背景もあり、九十九里では数々のイワシ料理が生まれた。そのひとつが、イワシのすり身を使った「いわしのだんご汁」。お吸い物に入った団子状のすり身はふわりと消えるような食感で、舌にいつまでも余韻が残る。イワシを長く保存するために編み出されたのが「せぐろいわしのごま漬け」だ。頭とはらわたを取ったカタクチイワシを塩漬けにして、ごま、しょうが、柚子、赤唐辛子などと2~3日ほど酢漬けにする。1匹ほおばると、イワシのうま味とともに酸味と香りをじわりと感じる。
うちの郷土料理

<南房総エリア>
温暖な気候で育まれる酪農、農業と豊かな海の恵み

県南部にあたる南房総エリアは観光スポットが集まるリゾート地。北風が弱く、冬でも温暖な気候とあって、鋸南町(きょなんまち)の水仙群生地や鴨川市の「菜な畑ロード」など、各地で四季折々の花々を楽しめる。南房総市や鴨川市、館山市などの沿岸部では海を臨んだリゾートホテルが人気を集めている。

一年を通して農業が営まれており、江戸時代は幕府へ酪農、果物、魚介類などの生鮮食料品を供給する役割を果たしてきた。現在、南房総市ではエリアでとれた地産品を「南房総印の食ブランド」に認定。イセエビやキンメダイ、ひじき、食用菜花、そらまめ、セロリなどの20品が認定されており、なかには「長狭米」(ながさまい)や「房州びわ」といった全国的に名が知られている銘柄もある。
うちの郷土料理

画像提供元:日本の食文化情報発信サイト「SHUN GATE」

魚介を使った郷土料理も多く残っており、豊富にとれるアジやイワシを使った「なめろう」やそれを焼いた「さんが焼き」などは居酒屋や道の駅でも提供されている。
うちの郷土料理
この地の歴史を伝える「日本酪農発祥の碑」が、南房総市の嶺岡乳業研究所にある。戦国時代に一帯を治めていた里見氏が、嶺岡山(みねおかやま)に牧場を開いたのがはじまりとされる。江戸幕府もこれを継承し、八代将軍徳川吉宗はバター製造のためにインドから3頭の白牛を取りよせた。その後、寛政時代(1789~1801)には70余頭にまで繁殖を成功させている。嶺岡地区の酪農家は、栄養源として「チッコ豆腐」を食べてきた。この地域では牛乳のことを「チッコ」という。母牛が仔牛へ最初に与える初乳を、加熱し酢を加えると、カッテージチーズのような仕上がりになる。初乳は市販することはできないが、捨ててしまうのはもったいないと考案された。現在は「チッコカタメターノ」と名付けて、市販の牛乳を使ったレシピが料理教室などでつくられている。
うちの郷土料理

画像提供元:千葉伝統郷土料理研究会

首都圏に含まれ、街並みが整備されている千葉県から「郷土料理」をイメージしにくいかもしれない。しかし、地域の暮らしに目を向ければ、古くから連綿と受け継がれてきた食文化がたしかに息づいている。味覚を通じて味わう千葉県には、まだまだ知られざる魅力に満ちている。

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