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特集 農業用のダムと水路の世界

今も現役で働いています!歴史的価値のあるかんがい施設 今も現役で働いています!歴史的価値のあるかんがい施設

人類の文明の発展と密接に関わり、長い歴史を持つかんがい技術。
かんがい施設には、はるか昔に造られ、今なお水を届け続けている水路や取水堰が
数多くあります。今回は、そんな歴史的価値のあるかんがい施設を紹介します。

YAMADAZEKI

唯一無二の石畳堰 山田堰 唯一無二の石畳堰 山田堰

福岡県朝倉市の筑後川には、江戸時代に築かれた「山田堰(やまだぜき)」があります。ここから取られた水は、今も約652ヘクタールの水田を潤しています。全面石張りのユニークな構造を持ち、「山田堰、堀川用水、水車群」として、2014年に「世界かんがい施設遺産」に登録されています。

石張総面積:2万5,370平方メートル 堰頂長さ:320メートル堰高:3メートル 堰幅:169.7メートル

SYSTEM 川の水の力を受け流しつつ巧みに利用する構造

上から見ると、三角形をしている山田堰。石張りの斜め堰は日本の伝統的な築堰法ですが、山田堰は「傾斜堰床式石張堰(けいしゃせきとこしきいしばりぜき)」といって、独自の工夫を各所に見ることができます。かんがい用の堰は、いかに取水口へ多くの水量を導くかが大事です。しかし水流が激しい川では、水を集中させすぎてしまうと洪水の発生や堰が壊れる恐れがあるため、程よく水勢を緩和する必要もあります。そこで山田堰では、南舟通しと中舟通しの2本の水路によって水を抜き、さらに大きく増水した際には水が堰の上を越えていくようになっています。堰自体にも勾配がついていて、くぼみの部分に余水吐きの働きをさせています。そして取水口の手前には、もう1本細い水路が備わります。この水吐通しは鈍角に曲がりつつ急勾配になっていて、取水口へ水を呼び込みつつ、水門内への土砂の流入を防ぐ役割を果たしています。3本の水路は堰の末端部で合流し、ここでも水流を減勢させる仕組みになっています。

堀川用水の取水口。この下に1722年に岩盤をくり抜いてつくった「切貫水門 (きりぬきすいもん)」があります。現在は水門扉が設けられていて、開度によって水量を調節できます。水門の吐き出し口付近の水底は、堀川の川底より低く作られています。取水口から流入した水はサイフォンのように吹き上げられ、土砂が水門内に堆積しない仕組みです。増水時の山田堰。石畳で跳水させることで水勢を弱めています。手前に見える土砂吐通しの吐口は、渇水時には塞いで取水口への水量を増やすことができます。

通常時の山田堰。南舟通しと中舟通しの2本の水路は魚が遡上できる魚道も兼ねています。

HISTORY 古賀百工の改修工事によって1790年に完成形に

筑後川中流域に位置する朝倉市は、かつては原野が広がる荒れた土地でしたが、1662年の大干ばつを機に筑後川から水を引くための工事が開始され、約150ヘクタールの水田が開かれました。これが山田堰と堀川用水の原型ですが、その後水田が増えると、かんがい能力が限界に達してしまいました。そこで立ち上がったのが、下大庭村(したおおばむら)の庄屋、古賀百工(こがひゃっこう)です。百工は、水害を防ぎつつ、より多くの水を取水するには山田堰の全面改修が必要だと考えました。そして住民を説得して自ら設計を手がけ、工事を指揮し、1790年に傾斜堰床式石張堰の山田堰を完成。かんがい面積は約488ヘクタールに拡大しました。山田堰は、その後何度も洪水による被害を受けましたが、繰り返し修復されて現在まで引き継がれています。1999年の改修工事によって、自然石を積み上げた「空石積み」から石と石の間をセメントで固定する「練石積み」に変更されましたが、水を導くための基本的な仕組みは変わっていません。

「上座下座両郡大川絵図」朝倉市教育委員会蔵 1757年に描かれた山田堰。大改修を受ける以前は、川の半分ほどを閉めきった突堤でした。,「山田堰・堀川三百五十年誌」朝倉郡山田堰土地改良区 明治期の水害復旧工事の際に用いられた山田堰の工事図面より。,水門をくり抜くのは難工事だったため、その上には水神を祀る水神社が造られました。境内には「堀川の恩人」古賀百工の業績を称える石碑が建てられています。

田畑に水を送り続ける堀川用水と水車群

山田堰から取った筑後川の水を田畑に届ける堀川用水。1663年の開通によって水路の南側一帯は水田に生まれ変わりましたが、北側にある菱野や古毛(こも)周辺は水路より高い位置にあるため、流れを目の前にしながら長年その恩恵を受けることができませんでした。そこで地元住民が試行錯誤を重ねて作りあげたのが揚水用の自動回転式重連水車です。1789年前後に建造された7基の水車は、今も230年前とまったく変わらない姿で1日2万400トンの水を揚水し、35ヘクタールの高台の農地を潤しています。戦後、全国で水車がポンプに置き換わるなか、朝倉でも水車廃止の議論がなされたこともありましたが、歴史的な遺産を守ろうという声が強く、存続されました。水車は静かで電気代も不要。温室効果ガスの削減量は年間約50トンと試算されています。

堀川用水。開削時の全長は約8キロメートルでしたが、その後拡幅延長を重ね、今では支線まで合わせると合計88キロメートルに達します。

CANAL

水車は6月中旬から10月上旬まで稼働し、冬から春までは柄杓などの主要部材が取り外されます。また地元の水車大工によって5年ごとに作り替えられています。例年6月17日に行われる山田堰通水式。神事の後に山田堰の水門が開かれると、約15分で約2キロメートル離れた水車群に水が到達します。回り始める水車は、夏の訪れを告げる合図です。

上から菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車。1990年に国の史跡に指定されています。

INHERITANCE

地域住民が一体となって施設を継承

山田堰及び堀川用水を管理しているのが、水土里ネット山田堰(山田堰土地改良区)です。事務局長の熊谷敏幸さんによると、毎日山田堰などの水位計をチェックし、水量が下流域まで足りているか確認の上、必要に応じて山田堰の水門や土砂吐通しの吐口で流量を調整しているとのこと。また水土里ネット山田堰では、歴史的なかんがい施設を地域の財産として、地域住民と一体となって継承する取り組みを行っています。2008年度に発足した住民団体「堀川の環境を守る会」とともに行っている用水路のクリーンアップ活動は、約1,000人の住民がボランティア参加する環境活動として定着。また将来を担う地域の子ども達を通水式に招いたり、体験学習の支援を行うなど、啓発活動にも力を入れています。さまざまな人々の手によって守られてきたかんがい施設は、こうしてさらに未来へと受け継がれていくことでしょう。

写真上:山田堰の受益地のうち、6割は水田で、ヒノヒカリや元気つくしなどの米が作られています。写真下:残りのうち2割は博多万能ねぎやきゅうりといった園芸作物で、1割は柿などの果樹です。

三島地区にある堰。梅雨の大雨で堀川が溢れそうな場合は、山田堰取水口の水門を閉め、この堰を倒して筑後川に放流します。「お盆前は逆に渇水状態になりがちなので、水量の管理が重要です」と語る、水土里ネット山田堰事務局長の熊谷敏幸さん。写真左上:毎年6月の第一日曜日に行われる、用水のクリーンアップ活動。写真右下:毎年9月に開催される、朝倉地区の小学4年生が水源林と農業用水の関係を学ぶ「水の学習」。

山田堰の価値を世界に伝えた中村哲医師 治水及び利水の技が世界でも高く評価されている山田堰。その知名度向上に大きく貢献したのが、福岡県出身の中村哲医師です。アフガニスタンの復興支援を行う国際NGO団体の「ペシャワール会」で現地代表を務め、2019年12月に亡くなった中村さんは、2010年に完成したマルワリード用水路の取水堰の設計に当たり、山田堰を参考にされました。1万6500ヘクタールの荒野を農地に変えた堰と用水路は、復興支援のかんがい用水モデルとして今も活用されています。用水路によって緑がよみがえったアフガニスタンの大地と中村哲医師。

まだまだあります!全国の世界かんがい施設遺産
01
照井堰用水(てるいせきようすい)岩手県

磐井川上流部の大〆切(おおしめきり)頭首工を水源に、一関市と平泉町を流れる総延長64キロメートルの3本の疎水の総称。1100年代後半に藤原秀衡の家臣、照井太郎高春が穴堰を開削し、子孫の照井太郎高安が完成させた。

02
寺谷用水(てらたにようすい)静岡県

「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川の治水・利水のため、徳川家康のもと、家臣の伊奈忠次及び平野重定が手がけ、1590年に完成した用水路。治水と利水を一体的に行う革新的なかんがい工事の先駆け。

03
五郎兵衛用水(ごろべえようすい)長野県

佐久市浅科(あさしな)の台地を新田開発するために、市川五郎兵衛が私財を投じて江戸初期の1631年に完成させた、全長20キロメートルに及ぶ用水路。1960年代に改修工事が行われ、「つきせぎ(土の樋)」も近代的な水路に生まれ変わっている。

04
明治用水(めいじようすい)愛知県

矢作(やはぎ)川上流から取水し、安城市を中心に西三河一帯の農地を潤す大用水。江戸時代後期に豪農の都築弥厚(つづきやこう)が計画し、1880年に主要な幹線が完成した。「日本三大農業用水」のひとつ。

05
立梅用水(たちばいようすい)三重県

櫛田(くしだ)川から取水し、中流域右岸の河岸段丘面に導水する全長28キロメートルの用水路。1823年に完成したもので、硬い岩盤をくり抜いた素掘りの隧道や切り通し部分が今も残されている。

06
上江用水路(うわえようすいろ)新潟県

関川から取水し、上越市及び妙高市の水田に用水を供給する、全長約26キロメートルの用水路。1500年代後期から地元の農民たちによって3期130年にわたって掘り継がれ、1781年に全線通水した。

07
常西合口用水(じょうさいごうぐちようすい)富山県

常願寺川の洪水を防ぐため、明治政府が招いたオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指導によって常願寺川左岸の12本の用水路の取水口を統合し、1893年に完成した。日本初の大規模な合口(ごうぐち)化とされる。

08
井川用水(ゆかわようすい)大阪府

樫井川から取水し、十二谷池へと流れる全長約2.9キロメートルの用水路。1300年代から存在したと考えられ、貴族の荘園「日根荘(ひねのしょう)」の開発において重要な役割を果たした。井川用水や十二谷池は国の史跡として指定されている。

09
淡山疏水(たんざんそすい)兵庫県

延長 26.3 キロメートルの「淡河(おうご)川疏水」と、10.8 キロメートルの 「山田川疏水」を合わせた呼称。水不足の印南野(いなみの)台地に水を引くため に計画された 1771 年の山田川疏水構想以来、完成まで約 150 年もの歳月を要した。

10
倉安川・百間川、かんがい排水施設群(くらやすがわ・ひゃっけんがわ、かんがいはいすいしせつぐん)岡山県

倉安川と百間川、倉安川吉井水門で構成。かんがいのために1679年に築造された倉安川は、吉井川と旭川を結ぶ延長19.9キロメートルの水路。百間川は、旭川の洪水を防ぐために1687年に築造された延長12.9キロメートルの放水路。

11
通潤用水(つうじゅんようすい)くまもとけん

水不足に悩む白糸台地一帯に水を送るため、矢部の惣庄屋であった布田保之助(ふたやすのすけ)によって1855年に造られた農業用水路。石造アーチ水路橋の通潤橋は、2023年に土木構造物としては全国初の国宝に指定された。

今週のまとめ

歴史あるかんがい施設は農業用水を送り届けるだけでなく、
先人の培った技術や歴史、文化を今に伝える役目も果たし、
地域の人々にとっての貴重な財産、シンボルとなっています。

お問合せ先

大臣官房広報評価課広報室

代表:03-3502-8111(内線3074)
ダイヤルイン:03-3502-8449

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